[架空鉄道] 京埼電鉄 路線の変遷 ※このページの内容はフィクションです。


路線形成過程は後付けになることが多いですが、路線のリアリティを出すにはいいかもしれません。


●京埼電鉄路線網の形成過程(黎明期)
京埼電鉄の路線は数々の路線の統廃合によって路線を形成してきた。

中央軽便電気鉄道(後の武州鉄道)
 当初は日光を指向していた。行田方面と赤羽を結ぶ計画であった。
 都心部では京埼電軌と適宜連絡をする予定であったが、武州鉄道は経営が苦しくかつ、
 台風による鉄軌道へのダメージから路線自体が廃止になった。
京埼電気軌道→京埼電軌
 京埼電軌は東京と埼玉方面の郊外鉄軌道として、専用軌道を持つ馬車軌道(1,372mm)で路線を開業した。
 川口線は後述の武州鉄道の暫定的な都心部路線として都電と乗り入れを行うため、神根と岩渕町まで路線を伸ばした。
 路線の収益は好調であったため、後に比企鉄道や上武電気鉄道を傘下にする。
比企鉄道→京埼電気軌道都幾川線
 秩父の石灰石をはじめとする鉱業や、林業の輸送手段として大宮-秩父の鉄道線(1,067mm)として大宮-都幾川が開業した。
 路線は都幾川(西平)までの路線が順調に開業したが、秩父までは山岳線区であることからトンネル工事費などの資金捻出ができず、
 都幾川(西平)で線路が切れている。秩父から更に小鹿野、佐久への路線が計画されていた。
上武電気鉄道
 大利根線の武州荒木以北の部分に相当し、当初から上州と武州を結ぶ計画であったが、他路線に乗り入れることで実現させようとしていた。
 中央前橋から順次路線を延ばし、利根川を越えて武州荒木まで路線を達することになる。
 テリトリー的に東武の許であったが、当時好調であった京埼電軌が資本協力し、利根川を渡った。
 上毛電鉄が大胡から本庄へ路線を計画していたが、これに乗り入れる意図もあった。
 もともと高速運転を意図したものではないため、路線にカーブが多い。
利根軽便鉄道→上武電気鉄道
 利根川水運業の斜陽化に伴って、沿線の資本家が中心となって主に農作物輸送をメインに路線が計画された。
 蓮田から妻沼、行田、熊谷方面に路線を延ばすことが考えられていたが、
 見沼代用水に沿って路線を延伸することが妥当とされ、内燃動力による狭軌(762mm)で開業した。
 上武電気鉄道は利根軽便鉄道を統合したが、このことで当初の予定である上州と武州を結ぶ計画が完遂したため、
 昭和18年に東武熊谷線が開業すると、乗客減を懸念し、あえて東武との交点である妻沼に設置を行わわなかった。
 戦時中の事業統制によって路線統合が進み、東武鉄道京埼業務部や上武業務部として統合され、
 妻沼に駅が設置されたのは、この頃である。





武州鉄道記事京埼電気軌道記事比企鉄道記事上武電気鉄道記事利根軽便鉄道記事
明治43中央軽便電気鉄道創立    
大正2 京埼電気軌道創立   
大正5 沼田町-武州川口 開業   
大正9 川口線(岩渕町-武州川口-武州鳩ヶ谷)
開業
   
大正10武州鉄道に社名変更  中央前橋-上武伊勢崎
軌間1067mmにて開業
 
大正10 下谷-沼田町(現:京埼江北)
軌間1,372mmにて開業
   
大正12 広ヶ谷戸-武州大宮(現:京埼大宮) 開業 上武伊勢崎-下田島
開業
 
大正13蓮田-岩槻 開業    
昭和2    利根軽便鉄道線(蓮田-大利根)
軌間726mmにて開業
昭和3  大宮-武州松山
軌間1067mmにて開業
下田島-武州荒木
開業
 
昭和5 武州鳩ヶ谷-神根開業   
昭和7 川口線 都電直通開始
(駒込駅前-武州鳩ヶ谷)
   
昭和10 鋳物貨物輸送のため本線改軌
(1,372→1,067)
   
昭和11  武州松山-都幾川開業  
昭和12武州大門-神根 開業武州鉄道と連絡運転開始 利根軽便鉄道→上武電気鉄道に合併
昭和13廃止
経営難と台風による
路線ダメージから事実上の
廃止となる
比企鉄道→京埼電軌都幾川線となる 
昭和19 統制事業法にて東武鉄道に吸収合併され、
京埼事業部となる「武州」は全て「京埼」に
 
昭和19 戦時不要不急路線として、神根-京埼川口 休止 


●京埼電鉄路線網の形成過程(戦後-現在)
戦後は大東武からの独立を果たした。当初は東上事業部も含めての分離独立を目指していたが、東上線は東武鉄道のままとなり、
元々の資本的なつながりのある上武電気鉄道と京埼電軌は京埼電鉄として出発した。
路線の規格が馬車軌道、標準軌、狭軌や動力など統一されていないことや、大宮駅付近のターミナル統合が喫緊の問題となった。
図上では、上野-中央前橋は一つながりになっているが、最終的に全線が一つになったのは、
戦後からしばらく経った昭和56年のことである。

京埼電鉄は路線の復興と分断されている各路線を統合する目的で3つの大計画を打ち立てた。

・都幾川から秩父への路線建設
・分断されていた本線と都幾川線の大宮駅接着
・利根軽便線の近代化、と旧武州線区間の復活(川口 - 神根 - 浦和大門 - 蓮田 - 菖蒲町 - 武州荒木 - 上武伊勢崎 - 中央前橋)

旧上武電気鉄道区間は、電化・改軌によって近代化が計られ、蓮田-中央前橋で運転をした。
ローカル線の位置付けには変わりが無く、武州線区間の復活が待たれた。

京埼電軌区間は昭和30年代に近代化・高速化が行われた。まず東京側は上野に乗り入れ、
大宮へのターミナル乗り入れを行い、大宮-都幾川との統合が実現した。
しかし、大宮は手狭な片面1ホームのみでしばらくの間は、ダイヤ上のネックとなっていた。

一方、軌道の川口線は都電の郊外線的存在で、直通運転をしていた。
京埼直通車に限っては、
(王子行き)京埼は先払い、都電区間は後払い
(鳩ヶ谷行き)都電区間は先払い、京埼は後払い
という特殊な収受方法をとり、京埼川口や王子などでは乗り換え券を発行していた。

都電27系統(王子まで)=赤羽・岩渕町・荒川大橋・西元郷・元郷・京埼川口・オート前・京埼鳩ヶ谷
で運転をしていた。赤羽-元郷は岩槻街道上を走る併用軌道線であったこともあり、
交通渋滞を引き起こす原因として、廃止の憂き目をみることになった。
地下鉄として都心に乗り入れることもこの頃になると真剣に検討されはじめた。

東北新幹線・上越新幹線の着工が昭和46年にスタートしたが、本来であれば沿線の見返りとして国鉄が伊奈新線を建設する
ことが妥当であったが、京埼電鉄が名乗りをあげ、潤沢な路線用地を新幹線用地として一部を供出し、
大宮駅を一大拠点とするべく、大宮-伊奈-菖蒲町の伊奈新線が計画され、これに利根線との直通をすることになり、
蓮田-菖蒲町は統合後に廃線することになった。
(復活の目処が立たない旧武州線区間は免許を手放し、将来的には埼玉高速鉄道として復活をすることになる。)

伊奈新線として昭和51年に開業した。(大宮-大成は暫定的に都幾川線を使用した。)
昭和56年に大宮駅地下ホームが完成し、本線・都幾川線・伊奈新線・利根線が統合された。

また、戦後再び都幾川から秩父への路線計画が持ち上がり、現在も都幾川から西平まで幻と化した延長線が存在するが、
先手で西武鉄道が昭和44年に秩父へ路線を延ばしたことで、路線延伸そのものを断念したとみられ、
今日に至ってはわずかにバス路線が定峰峠経由で秩父への路線を持つに至っている。



京埼電鉄記事
昭和22下谷-京埼大宮を本線、大宮-都幾川を都幾川線、蓮田-大利根を蓮田線、武州荒木-中央前橋を利根線として京埼電鉄創立
昭和22京埼鳩ヶ谷-京埼川口 再開、複線化
昭和25急行運転開始 (下谷、町屋、沼田町、京埼川口、芝下、広ヶ谷戸、京埼浦和、京埼大宮)
軽便線区間廃止(大利根-武州荒木)
都幾川-秩父免許取得。
昭和29旧武州鉄道区間免許取得(神根-蓮田)
昭和30皇山開業 日中15分サイクルに改正
昭和31京埼川口-駒込 免許取得(現南北線ルートとほぼ同一)
旧利根軽便鉄道区間(蓮田-武州荒木)を改軌(726mm→1,067mm)
昭和33京埼大宮-大宮 開業、大宮-都幾川と本線の直通運転開始。上野-都幾川を本線とする。
準急運転開始(下谷、町屋、沼田町、京埼川口〜大宮各駅)
昭和35下谷-東日暮里廃止、東日暮里-上野開業、沼田町→京埼江北に改称
停車駅種別見直し(急行:上野、京埼川口、京埼浦和、大宮)
昭和37原山開業、免許区間廃止(神根-蓮田)
伊奈新線(大宮-菖蒲町)免許取得
ダイヤ改正(特急の新設)
昭和40駒込-京埼川口 営団地下鉄に免許譲渡
昭和44都電との直通運転を休止、川口線(元郷-岩渕町)廃止、京埼鳩ヶ谷-京埼川口を改軌(1,372mm→1,067mm)
ダイヤ改正
昭和45伊奈新線の経由地変更。用地の一部は国鉄用地(東北新幹線)に売却
昭和46貨物輸送(都幾川-大宮-青木町-京埼江北)廃止
菖蒲町-武州荒木電化
昭和47大谷口開業、日中15→12分サイクルに改正
都幾川-秩父免許失効
昭和49伊奈新線(大成-菖蒲町)開業
蓮田-菖蒲町廃止、大宮-中央前橋を大利根線に統合、名称変更
昭和56大宮地下ホーム竣工、伊奈新線、利根線を統合、大宮-大成高架複々線化
全面ダイヤ改正
平成2鹿浜-東領家高架複々線開業
平成3埼玉高速鉄道発足、元郷-浦和大門 埼玉高速鉄道に免許委譲
平成12営団地下鉄 赤羽岩淵-川口元郷、埼玉高速鉄道 川口元郷-浦和美園 開業
元郷→川口元郷に改称
川口元郷-京埼川口-川口オート、高架完成
通勤急行の新設